プログラムノート(第362回定期演奏会)
2023-03-13
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
ワーグナー (1813~1883) 楽劇「トリスタンとイゾルデ」より“前奏曲と愛の死”
作曲 1857年~1859年 初演 “前奏曲” 1860年1月パリ、作曲者自身指揮 初演 “前奏曲と愛の死” 1863年サンクト・ペテルブルク、作曲者自身指揮 初演 「楽劇」 1865年6月ミュンヘン、バイエルン宮廷歌劇場、ハンス・フォン・ビューロー指揮 |
愛への憧憬(しょうけい)、浄化の美学が、半音階的なハーモニーや無限旋律と呼応しながらホールを満たす。110小節を超える前奏曲の冒頭部、チェロとオーボエによって奏でられるのが憧れの動機だ。西洋音楽に秩序をもたらしてきた規則性のあるハーモニー(機能和声)を、崩壊寸前にまで広げた、いわゆるトリスタン和音が響く。
神秘的な響きも調べの妖しい移ろいもお任せあれの「トリスタンとイゾルデ」から“前奏曲”と、楽劇の幕切れでイゾルデによって歌われる“愛の死”の場面を聴く。ワーグナーの時代から、コンサートではおなじみの演奏法である。
──騎士トリスタンは、伯父マルケ王の妻となるイゾルデと愛し合っていた。現世では結ばれぬと悟ったトリスタンとイゾルデが飲んだ死の薬は、侍女ブランゲーネがすり替えた愛の妙薬だった──
1857年から59年にかけて作曲された。鬼才ワーグナーこのとき40歳台半ば。楽劇は1865年6月にミュンヘンのバイエルン宮廷歌劇場で初演されたが、それに先立ち、1860年にパリで“前奏曲”が、1863年にサンクト・ペテルブルクで“前奏曲と愛の死”が、それぞれワーグナーの指揮で演奏されている。
余談をお許し頂ければ、楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第1幕への前奏曲も初演(1868年ミュンヘン)に先立つこと6年も前に、作曲者自身の指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で初演されている。作品の広報宣伝および資金調達に余念がなかった作曲家の姿も浮かぶ。
楽劇「トリスタンとイゾルデ」脱稿後、ワーグナーは“前奏曲”にもコンサート用の終結部を書いたが、この手稿譜は、ブルックナー研究の一次資料も多いウィーン楽友協会のアルヒーフ(古文書資料館)に収められている。ウィーン宮廷歌劇場は難曲「トリスタンとイゾルデ」に怖気づき上演を先延ばしにしたものの、かの地の人気楽団が奏でていたために貴重な楽譜が遺されたのだ。
抜粋だったとは言え、また楽譜通りの楽器編成ではなかった可能性が高いものの、音楽の都ウィーンで「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」「トリスタンとイゾルデ」の調べを嬉々として奏でたのが、ワルツ王ヨハン・シュトラウスと才能豊かだった弟ヨーゼフ率いるシュトラウス楽団だった、という史実に驚く。とくにヨーゼフ・シュトラウスはワグネリアン(ワーグナー芸術の崇拝者、熱狂的なファン)だった。
変容もキーワードとなる“前奏曲と愛の死”に戻せば、トリスタンの亡骸を前にしたイゾルデの絶唱“愛の死”をコンサートで演奏する場合、歌唱パートの一部は伝統的なオーケストラ慣用譜にならい、クラリネットに委ねるのが一般的だ。うっすらと弦を添える指揮者もいる。
仙台フィルは昨年4月、角田鋼亮の指揮で英バックスの交響詩「ティンタジェル」を奏でた。グレートブリテン島の南西端コーンウォールの荒海を見下ろす古城跡から霊感を受けた20世紀初頭の佳品だった。トリスタンはコーンウォールの騎士である。今回の“前奏曲と愛の死”で、2022年度シーズンの環が美しく閉じられる。
ブルックナー (1824~1896) 交響曲第7番 ホ長調 WAB.107(ノーヴァク版)
作曲 1881年~1883年 初演 1884年12月ライプツィヒ市立歌劇場、 アルトゥール・ニキシュ指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 |
気宇壮大な交響曲にいだかれる。みずみずしい旋律美、彫りの深い祈りの情趣、気高く壮麗な響きが日立システムズホール仙台・コンサートホールを満たす。
敬けんなカトリック教徒として神を崇め、オルガン演奏とりわけ即興の名手だったオーストリアの「音楽教師」アントン・ブルックナーが、交響曲の世界に目覚めるのは40歳台になってからである。このジャンルの創作に関する限り、大器晩成を地で行く人だった。
故郷に近いドナウ河畔の古都リンツを離れ、ハプスブルクの帝都ウィーンに移り住んだブルックナーは1868年、ウィーン楽友協会附属音楽院(現在の国立音楽演劇大学)の対位法(作曲理論)の教授に迎えられ、オルガンの演奏法や対位法の美学を生かした交響曲を書き始める。
しかしブルックナーが創り始めた交響曲は、古典的な音楽観や交響曲の概念を超越していたために、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団や同フィルゆかりの指揮者、ウィーン楽友協会の要人を戸惑わすことも多かった。あからさまな拒絶反応も起きた。
かの地の論客エドゥアルト・ハンスリック博士(1825年プラハ出身、1904年ウィーン没、ウィーン大学教授、主要紙の批評主幹)が煽った絶対音楽と標題音楽をめぐる論争に巻き込まれたという側面もあった。
難解極まりない書「音楽美論」を著し、親ブラームス派を標榜したハンスリックは、フランツ・リストが創始した交響詩やワーグナーの楽劇──いわゆる新ドイツ音楽を情け容赦なく退けた。哀愁と情熱をたたえたチャイコフスキーの音楽にも冷たかった。1881年暮れのヴァイオリン協奏曲初演時(ブロツキーの独奏、リヒター指揮ウィーン・フィル)の酷評が有名だ。でも同じスラヴ系でもブラームスが見いだしたドヴォルザークは評価した。よく分からない。
ワーグナー芸術を崇拝し、交響曲第3番を彼に献呈したブルックナーの音楽は、ワーグナー派と見なされハンスリックから「攻撃」の対象となってしまう。実はハンスリック、1845年にドレスデンで初演された「タンホイザー」は評価し、当初はブルックナーのことも認めていたのだが。
それでブルックナーは改訂という名の旅に出る。指揮者や弟子筋による、ブルックナー愛ゆえの助言、改ざんもあった。その経緯、背景は実に様々である。
けれども、1881年9月に完成した交響曲第6番、それに同月に作曲が始まった交響曲第7番は例外的に改訂されなかった。コラール(聖歌)風の筆致やフーガの技法も舞う構築的な交響曲第5番で新境地を切り拓いたブルックナーは、旋律美も躍動感も際立つ第6番、そしてこの第7番で交響曲作家として自信を深めたと考えられる。
創作の歩みを記せば、まず第3楽章、第1楽章が(作曲開始の翌年)1882年の秋から暮に完成、年が明けて1883年1月に第2楽章のスケッチが仕上がる。
第2楽章の創作が佳境を迎えた頃、水の都ヴェネツィアから訃報が届く。2月13日、リヒャルト・ワーグナー、69歳で天に召される。
歴史的なワーグナー指揮者フェリックス・モットルへの手紙に記しているが、ブルックナーは敬愛してやまないワーグナーの旅立ちを予感しつつアダージョの第2楽章を嬰ハ短調で書き進めていた。
そして教べんを執っていたウィーン大学で悲しい知らせを受け取ったのち、「巨匠に捧げる心からの葬送音楽」を書く。光彩に満ちた音響の頂点から、ワーグナーテューバ(ホルン奏者が持ち替えで吹く中音域のテューバ)を交えた金管のコラールの場面。嬰ハ短調を基調とした第2楽章は、昇天、浄化を思わせる長調で静かに閉じられる。
前掲データにあるように、1884年12月にニキシュ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により初演、翌春にはミュンヘン宮廷歌劇場の楽長ヘルマン・レーヴィのタクトによりミュンヘンでも披露された。そしてドイツ巡演後の1886年3月、ついにハンス・リヒター指揮のウィーン・フィル定期公演のメインを飾る。
曲はミュンヘン初演のタクトを執ったレーヴィの仲立ちにより、バイエルン国王ルートヴィヒ2世(ワーグナーのパトロン)に献呈された。
ライプツィヒ、ミュンヘン、そして何かと冷たかったウィーンで喝采を博したこともあり、ブルックナーは交響曲第7番に大改訂を施さなかった。それゆえに1885年刊行の初版譜、音楽学者ロベルト・ハース博士校訂の1944年ハース版、レオポルト・ノーヴァク(ノヴァーク)博士校訂の1954年ノーヴァク版に、ドラマティックな差異はない。詳細に眺めれば、オーケストラの楽器法やイタリア語の速度・表情語の扱いに若干の差異はある。
しかしひとつ「問題」がある。それは第2楽章の頂上部における打楽器の扱いで、シンバル、トライアングル、ティンパニを採用するか否か。これらの打楽器パートは、自筆総譜に後から貼られた紙片に書かれているのだが、その紙片の右上にはgilt nicht(does not count, invalid の意)つまり「無効」とあるのだ。 ここで判断が分かれる。ハース博士は「無効」に従い打楽器を外したが、ノーヴァク博士はこの「無効」を他人の筆跡と判断し打楽器を採り入れた。近年はブルックナー本人の筆跡ではないかとの説も出されているが、打楽器の追加はブルックナーの意思なのか、彼と同時代を生きた弟子筋の意見なのか。 最終的な判断はもちろん指揮者に委ねられる。ハース版で打楽器あり、ノーヴァク版で打楽器なしの演奏も存在する。
ワーグナー、ブルックナー芸術の使徒、飯守泰次郎と仙台フィルの絆、交歓に拍手を。
第1楽章:アレグロ・モデラート ホ長調
万物創造に立ち会うかのような冒頭の創りも3つの主題による構築もブルックナーのお家芸。終結部を彩るティンパニも味。
第2楽章:アダージョ、とても厳かに、そして、とてもゆっくり(表記はドイツ語) 嬰ハ短調
第3楽章:スケルツォ、とても速く イ短調、トリオ(中間部)、いくぶん遅く ヘ長調
オーストリアの田舎の風景を愛でたブルックナーならではの、リズミックかつ朴訥としたとしたスケルツォ。上行、下降する動機が新鮮。ABAの三部形式。
第4楽章:フィナーレ、動きをもって、しかし速くなく ホ長調
音楽理論に一家言あったブルックナーは3つの主題の提示、再現法に凝った。グランドフィナーレには第1楽章の第1主題が回帰する。