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楽団員リレーコラム

リレーコラム

<第1回> 山登りが好き:ヴァイオリン 山本靖子さん

この夏、山形県の大朝日岳に登りました。

山小屋に2泊、寝袋と3日分の食糧を持って登るのは初めてでしたので少々不安でしたが、1日の行程がゆったりしていたので助かりました。

1日目の小屋に着いたのが昼過ぎ、小屋の周りを散策し早めの夕食を食べたら何もすることがなく、6時には寝る準備。横になったのは6時半でした。いつもならまだ本番も始まっていない時間です。眠れるわけがありません。そのうち、あちこちからイビキが聞こえだし、眠れない人の気も知らず豪快にイビキをかいています。私も寝なくちゃと思うのですが、暑くて寝袋からはい出したり、ゴソゴソ動いて隣の人に迷惑をかけてしまいました。
画像―山登りが好き:ヴァイオリン 山本靖子さん    
2日目は登るにつれて霧が濃くなり、頂上に着いた時は何にも見えませんでした。今夜こそは寝るぞと思っていたら、夜中に屋根をたたく雨の音で目が覚めてしまいました。案の定、起きたらどしゃぶりの雨。でも、小屋を出る時は雨も上がり、時々霧がサッと晴れ、美しい山肌が見えるたび歓声をあげながら下山しましたが、とうとう大朝日岳は顔を見せてくれませんでした。

天候には恵まれませんでしたが、霧の中に咲いていたコバイケソウやニッコウキスゲがステキでした。それと、湧水で入れたコーヒーのおいしかったこと。

これからますます山のとりこになりそうです。

<第2回> 無題:フルート 安田不二夫さん

自分が最初に覚えた英語は“ギブミー、チョコレート”でした。

途切れ、途切れの記憶をさかのぼれば、何時の事やら、当時は本当に食べ物に不自由していました。梅干しならぬシソの葉を竹の子の皮で三角形状に巻いたのと、アルファベット型のビスケット、かりんとう、たまに売りに来るサトウキビ等が飢えた子供達のおやつでした。

自分も米兵のジープを追っかけた記憶があります。“ギブミー、ギブミー”とさぞかしうるさかったことでしょう。投げられた物はチョコレート、漫画の印刷された紙で包装されたチューインガム、野戦用戦闘食。中身は煙草、コンビーフ、コーヒー等が入っており、コンビーフは最高でした。残りはほとんど大人に取り上げられました。

ある昼下がり、子供達が遊び疲れ、皆してバラックと呼ぶべきであろう民家の塀によりかかってボーっとしていた時、何か得体の知れない緊張感というか、自分達とは違う異質な感覚が近づいて来るのを感じました。近づいてきたのは、15、6歳のアメリカ人の女の子とその弟でした。女の子を先頭にし、弟は後ろに隠れるように歩いてきました。我々一瞥もには振りませんでした。我々日本の子供達の視線のなかを激しい緊張と警戒心、日本人には何もさせないぞという決意をみなぎらせながら、我々のまえを通り過ぎようとしたのです。日頃軽蔑しきっていた日本人の子供達との数の無勢を感じたのでしょう。

その瞬間、我々は不思議な感覚に襲われました。皆全員が言葉もなくそのアメリカ人の後ろに、一列となり歩き出したのです。きっと悟ったのでしょう。この子について行けば何か食べ物にありつけるかもしれないと!アメリカ人の子供達は慎重に歩きました。決して早くなることはなく、歩調は一定でした。後ろを振り返る事もありませんでした。勿論、皆無言でした。

どれほど歩いたかは、今となっては記憶にありませんが、その子たちのいわゆるアメリカンハウスに着いても、何の言葉も発しません。黙って家に入っていったのです。我々も無言でその家に入りました。何故か左に曲がったのを覚えています。小さな部屋に不釣合いな大きな縦長のテーブルが有りました。皆無言でそのテーブルの椅子に座りました。しばらくして、やはり無言で母親らしき人が、何故か中華どんぶりにニッキ味の飴を山盛りにして持ってきたのです。お互い何の会話もありません。静かでした。我々は黙って口にいれ、残りはあらゆるポケットに、汚れるのもかまず飴を突っ込みました。

記憶はここまでです。きっと後で自分達の母親にきつく怒られたことでしょう。洗濯機もない時代に飴を洗うのは大変だったでしょうし、それより、なにより、無茶したこと、日本人の恥をさらしたことを嘆いたでしょうしね。しかし、無事に帰ってきた事を喜んだことでしょう。当時巷では、米兵による暴行事件が頻発していました。もし、母親でなく父親が帰宅していたらどうなっていたか。いずれにしても、遠い昔の無言劇のなかの1シーンのようでした。

<第3回> “ある日の夢のお話”:チェロ 高橋咲子さん

ある日、車で仕事へ向う道のことでした。

大雨が降っていて、最悪の道路状況。助手席には白い大きな犬が乗っていました。

ふと先を見ると、赤い大きな橋が土砂崩れにより崩れ落ちる様子が、スローモーションのように…。(ウワー、大変。これから渡るところだったのに。どうしよう。)

仕方なく道を変え細い道を行くと、その道はさらに段々と狭くなり、ついには車が建物にはさまれてしまって動かなくなってしまいました。(サイアク。)

車を乗り捨て、白い犬を連れ、土砂降りの雨の中を歩き出しました。するとその犬、シッポが急にスルスルと伸び、私の手をしっかりつかみ、まるで「こっちだよ…」と言うかのように、目指す方向へどんどん引っ張ってくれるんです。(へぇー、最近の犬ってこんな事出来るんだ。へぇー、へぇー。)

もうヘトヘトに疲れ果て、気がつくと白い犬と一緒にちょっとおしゃれなコーヒーラウンジでちょっと休憩。そこに中肉中背の男性が、ナゼかピッタリと私の隣に座っており、その顔を見ると、名前は知らないけれどTVドラマによく出てくる、チョット3枚目風の俳優さんなのです。(何て人だっけ…?)何気にジーっと見つめていると、「気持ちはありがたいのですが、ボクはフリーの身ではないので…ゴメンナサイ…。」お断りをされてしまった…。(エ?エ?私?そんな!違う!誤解です!)

気を取り直して横に目をやると、3枚目俳優が派手に表紙をかざるお芝居の雑誌が…。そして3枚目がスックと立ち上がったかと思うと、場面は一転。ジャーン!照明キラキラ!何と二人は、大がかりなお芝居の舞台のド真ん中に!そして、そして…。

エンドレス、のちフェードアウト。

誰か、こんな私の夢の分析をして下さい。毎日大変なんです。

<第4回> ポインセチア:ヴァイオリン 小川有紀子さん

年末年始は東京の実家で過ごした。それまでも、月に5日は帰ったりしているのだが、うちにある植木の状態を気にかけるゆとりはなかった。久しぶりに、うちの子たちはどうかなぁ…と見てみたら、ポインセチアの元気がない。元気どころか、要するに枯れているのである。緑の葉っぱがしおれて、少し黄色っぽくなりかけている。「とーちゃん!!!」と、日頃世話をしてくれている父をせめてみたのだが、多少水をやりすぎたのかも―という。ふむ。これもいつものことで、父はAB型。植木たちが、のどが渇いた!って言っている。…と水をやったかと思えば、しばらくの間忘れていたりもする。普通、2日に1回とか、決めてやるんじゃないの?!

こういう時、そう、調子が悪くなった時、人間は人間用の病院。動物は動物病院に行けばよい。なら、なぜ植物病院はないんだろう。植木屋さんにそういうことのできる人がいたりする。なぜ開業しないのだろう。世の中、あー枯れそうー、どうしたらいいんだろう―という植物をお持ちの方はわんさといるはずだ。救ってあげられるのではないか?きっと繁盛する。…その場合、やはり「待合室」が存在するのだろうか。

実はひとつ、困っていることがある。毎年冬になると思うのだが、大人用の小さな手袋ってないのだろうか。先日、革の手袋を頂いた。素敵な手袋だ。なのに少し大きい。というより、私の手はすごく小さい。手すりにつかまっている私の手を見て、「赤ちゃんのこぶしと変わらない。」と言われたこともある。子供用ならあるのはわかっているが、やはり大人の物で素敵なのが欲しい!特注か?!どなたか見たことありませんか?

<第5回> 無題:コントラバス 村上満志さん

仙台フィルホームページに何か書けとの仰せ。しかしながら、別段人様に申し上ぐべき趣味も特技も持ち合わせない小生には、何を書けば良いのやら…。

気がつけば、人間を始めて不覚にも半世紀の時間(とき)をすでに浪費してしまい、であるにもかかわらず、今や食べる事のみが生き甲斐といった為体。ならばと、開き直って、自ら思うところの「うまいもの」の話でもさせて頂くことにする。

小生、根からの極東人(などという言葉があるのだろうか)にして、西欧の食と女性には食指が動かず…。おっと、この御時勢に食と女性を同列に論ずるとは、言語道断、何事ぞ…。という訳で、いわゆる洋食なるものには、あまり食欲が湧かない方で、フランス料理風と言われて出された帆立貝に、ついついお醤油をかけたくなる類のオッサンである。

よって、非常に一般的かつ、変わりばえがなく恐縮だが、寿司とその周辺について、少し書かせて頂く。といっても左様に食べ歩いた訳ではないので、自分の行動範囲の中で細々とお話しさせて頂く。

住居のある千葉、コントラバスを弾かせて頂いている仙台、大学へ行っている名古屋、学生時代を過ごした松江、出身地広島…まてよ、食文化の谷間、名古屋ははずそう。第一そんなに沢山書いたら、読む人があきてしまう

小生、寿司を食べ始めたのは、今の住まいの前に住んでいた千葉県は船橋市で、30歳過ぎからのように記憶している。その頃、演奏会の後、自宅100m手前の寿司屋に寄る事が習慣のようになってしまった。その店で寿司をつまみ乍ら、ビールを1本飲む事でほとんど出来上がり、店を出て自宅迄の100mを誰にともなく「バッキャロー」と悪態をつきながら歩くことで、ストレス解消にこれ努めていた。

そこの寿司屋、下町の何の変哲もない店だが、町が漁師町だった為、それなりのネタが置いてあり、なかなかよろしかった。特に、通称馬鹿貝と言われる青柳は地元産で、身が大きく、さっとお湯を通していて形が整い、ほんの少し甘さがでて、しかも生臭さが消えて、なかなかのすぐれ物だ。

その店の玉にキズは、オヤジさんのキャパ(キャパシティ)が小さめで、少し客が立て込んだり、また食べている時にちょっと多目の出前注文が入ったりすると、すぐにパニクッてしまい、不機嫌になる。おかげで客である小生が、オヤジの様子を見ながら食べなくてはいけない事となる。その町を引越した今も、その店には時々顔を出している。付き合いが永い分だけ、落ち着けるのである。

次に、広島の寿司屋、というよりは料理屋。

かつて広島交響楽団のお手伝いをさせて頂くことが多かった頃、そこで生まれ育ったこともあり、昼食はまず広島風お好み焼きで体調を整え、夜はいざ、料理屋へ。瀬戸内の白身魚や、小鰯の刺身も良いが、「夜鳴き貝」なる巻貝がよろしい。そして何より、下足(げそ)のなま寿司である。軟骨の少し付いたなま下足を大葉にはさんで握ってもらうと、これ最高。忘れてました。ワサビは多めに。小生にとって、この店のとっておきは、秋に頂ける土瓶蒸。もはや罪悪感さえ感じてしまう美味しさである。これを口に運ぶたびに、子育ての為だけに一生を終わったような父親を、なぜだか思い出してしまう。

その昔、学生時代を過ごした街、“松江”は、築城以来そのままの松江城が、街全体を抱え込みように鎮座している。

そこでは、春には野に舞う蝶とたわむれ、夏には牛蛙の合唱に心なごませ、また、秋は夕映えの宍道湖に物思い、そして冬には深々と降り積もる純白の雪に、鬱々とした青春を感じつつ、そのようにして無垢なる4年間を過ごした。

寿司とは関係のない話になってきたが、勿論学生時代には寿司など食べる余裕はなく、松江で食べるようになったのは、卒業して再び松江を訪ねてからでである。日本海側の松江ではイカが美味しく、松江を訪ねる度に寄るお寿司屋ではその他に焼き物が良い。小生、酒はあまりイケない方、というよりからきしだめな方だが、肴は好きである。まるごとの焼き魚はもちろん、脂の乗った砂ずり(魚のお腹部分)をカリッと焼いてもらうと、これが良い。しかし、何にもまして、松江では学生時代の友人と、昔話をしながら飲めるのが、美味しさを引き立ててくれるかもしれない。

さて、最近仙台でお世話になっている店が、向山の住まいの近くにある。このオヤジさん、なかなかの芸術家にして、アイディアマン。ツマミのお刺身は、竹を半割りにした器に、大根は勿論、アク抜きした薄切りジャガイモ(白)・人参(赤)サラダ、かぼちゃ(黄)などで色どりを整え、見て美味しい盛り合わせを出してくれる。鮨はといえば、それぞれのネタに漬物や揚げヤサイ、生ヤサイを合わせて握る。例えば、中トロ(素材もよく)に漬け込んだニンニクの茎、つぶ貝にカリッと揚げた蓮根をのせて、海苔で合わせる。アジには、お決まりのネギに加えてほそ切りの山芋、カニのむき身にキャベツの芯の細切りをのせるといった具合…。すべてがナイスな味の取り合わせである。

どうも愚にもつかない事を、だらだらと書きつらねてしまいましたが、どうやら小生のような者にでも美味しい物を食べさせてあげようとする店の主人の心意気が、全ての美味なる物の源泉のように思える。

仙台フィルを聴いて下さるお客様に、少しでも良い音楽を提供できるよう、また、お客様の期待を裏切らないよう、小生も老骨に鞭打って練習に励む事としよう。

いつまでも仙台フィルを贔屓にして頂くことをお願いして、稚い雑文を終らせて頂きます。


<第6回> 山菜:クラリネット 千石進さん

私は春が好きだ。
寒い冬が終わり、木々が芽吹き、地中の植物が顔を出したりすると、なにかウキウキしてしまう。
そして、鶯の鳴き声を合図に、雪どけを待つ山の中を散策する自分の姿を想像してしまうのだ。

Ⅰ.まず最初に「ふきのとう」
仙台では「ばっけ」と呼ばれ、ばっけ味噌や天ぷら、味噌汁の具にもなる。私はあまり好みではないが、眉間にしわがよってしまう程のほろ苦さが春らしい。「ふきのとう」もいいが、私としては「ふき」をお勧めしたい。煮物にしたり、きゃらぶきにする。(ちなみに、私はきゃらぶきを作るのが上手である。)

Ⅱ.次にきりたんぽ鍋には欠かせない「セリ」
私が摘むのは「田ゼリ」だ。店で売られている様な大きい物ではない。小ぶりで香りも強烈だ。お浸しや玉子とじにするとおいしい。

Ⅲ.昨今、非常に人気があり、山菜の王様といわれる「タラの芽」
これは天ぷらに限る。毎日食しても良い。とにかく旨い。

私が山菜をとり始めたのは20数年前だが、当時はまだ山だった住吉台や、荒巻セントラルプラザのわきの山、そして西公園でもとることができた。いつから山菜ブームになったのか、だれが火付け役なのかわからないが、今は山奥に行かないと手にすることができなくなった。幻の山菜だけに自分のポイントがある。これは、ちょっとやそっとのことでは教えられない。

Ⅳ.山菜とりの醍醐味を楽しむなら、何といっても「ワラビ」

地表からスーッと伸びている姿をみつけると、もう勝手に手が動き、とらずにはいられない。夢中になりすぎて、ひと山越えてしまうこともあるくらいだ。生姜風味のお浸し(山形のそばの名店七兵衛でそばと共に出てきた。)、玉子とじ、竹の子ふきなどと煮る。

いずれにせよ、山菜は自分の足でとるのが基本であり、決してスーパーなどで買ってはいけない。ただし、自然の恵みに感謝し、取り過ぎにはご注意を。


<第7回> 花粉症:ホルン 中村隆司さん

私は一年の中でちょうど今の時期(5月頃)が一番好きです。新緑は美しく、何よりも毎年悩まされている花粉症の症状がようやく治まる時期だからです。

私は10年ほど前から春先の花粉症に悩まされています。初めのころは花粉症とは知らず、どうしていつもこの時期はくしゃみばかりして、鼻水も止まらないような風邪をひいてしまうのだろうと思っていたものでした。そのうちに、もしかして!と思い、どうしても試したくなって山に向かい、杉の木の下に行って思いっきり木を揺すぶって、舞い落ちてきた花粉を吸ってみたのです。するともう大変。すぐにくしゃみの30連発。鼻水だらだら、目までしょぼしょぼ…こうして自分が杉の花粉症であることを自覚しました。

そこへ今度は、何を血迷ったか逆療法などと言いきかせながら、杉の花粉をやけになってこれでもかと思うほど吸ってみました。アレルギー反応を通り越してそのうち体が適応するのでは、なんて何の根拠もないのに試してしまったのです。ところが症状は悪くなる一方…もうお手上げです。やはり素人考えで変なことをするものではないですね。その後、病院のアレルギー科に駆け込んだのは言うまでもありません。お医者さんに一部始終を話したところ呆れられてしまいました。

こうして私は毎年春になると花粉症との壮絶な戦いを繰り返していますが、そんな症状もなくな5月を迎えると、心はルンルンとなってきます。この間のゴールデンウィークは久しぶりに家族で山形蔵王へドライブに行きました。山の景観も美しく、温泉にも入り、天気も良かったので新緑が目いっぱいに入り、癒されました。冬のスキーシーズンも良いですが、今の時期の蔵王も、とても気に入りました。機会があればまた行ってみようと思います。


<第8回> やきいも屋さんについての考察:ヴァイオリン 伊部祥子さん

突然ですが、私には妙なクセがあります。
街中で聞かれる音楽のようなもの、例えば電車のお知らせ音ややきいも屋さんのスピーカーから流れる声、小学校のチャイム、等々の拍子が(たまに調性も)知りたくなる、というものです。 でもこれって音楽をする人なら多少気になってますよね?

で、今回はやきいも屋さんについての“考察”をちょこっと書こうと思います。そう、♪いーしやーきいもー、やーきたてーぇーぃ、やーきいもー♪というやつです。季節的には♪わらびーもちー♪のほうが有難いのですが・・・まあ、いいでしょう。

まず、一拍目をどこと捉えるかで悩みました。当然、頭の「い」のとこでしょ?と思ったのですが、何だかそれだと座りが悪いことに気付き、思い切って「いし」をアーフタクト(前打音)と考えました。「や」を1拍目にすると、

のとおり、3拍子できれいに収まるではないですか!! “あー、すっきりしたー”となったわけです。どうですか?少しは納得できますか?でもやっぱり、やっぱり6月はやきいも屋さんて来ないですよねー!? 冬に聞いたのを思い出しているので記憶があいまいだったかも・・・ちょっと不安なので、自信のある方は教えてください!!

<第9回> 贅沢な時間:オーボエ 木立至さん

このコラムを「書いてくれ」と頼まれたのはいつだったか。もうかれこれ一月以上前じゃないかなぁ。夏休みに入る前にやってしまわなれば大変なことになると思い、参考にしようとパソコンを開いてリレーコラムを拝見してみた。「みんなたいしたもんだ、プレッシャー感じるな」などと思いながら、重い腰がやっと持ち上がった。なんでなかなか書かなかったかというと、決して面倒くさかったわけではない。

僕はオーボエを吹いている。イングリッシュ・ホルンも担当している。僕たちの楽器はリードを作るという作業があり、これは、おおよそ音楽とは関係ない工作の時間なのだ。まして二種類の楽器分だから本当に時間がかかる。僕にとって時間を上手に使うということが、おおげさだが人生最大の目標だ。

そんな時間の使い方が下手な僕にとって最高に贅沢な時間の使い方が「釣り」である。海に向かって釣り糸をたらし、お目当ての魚のアタリを待つ。そこにはからだ全体を包み込む潮の香りと、音楽で疲れた耳に心地よい波の音があるだけで、ゆったりとした潮の満ち引きが、時間という概念を忘れさせてくれる。もともと横須賀という 街で生まれ育ったので、海は遊び場だった。子供にせがまれ、ちゃんと「釣り」を始めたのは昨年からで、まだ初心者だ。

閖上や仙台漁港にはよく行く。閖上ではハゼ、仙台漁港ではアイナメがよく釣れ、 型のよいものは食べる。そのために出刃包丁を購入し、おろし方を母親に教わった。 残念ながら、刺身で食べれるほどの大きな釣果はまだないが、今までで一番は閖上で 釣ったセッパかな。20センチ強だけどすごく美味しかった。夕食のおかずの一品に 加わり、お父さんの株が少し上がった。

いい竿が欲しい!磯からの投げ釣りも、船に乗ってのカレイ釣りもしたいなぁ。でも、まずはお小遣いをためなくては…先日も演奏旅行の途中の氷見と新湊で釣ってきた。釣竿を持って仕事に行くのだから、仲間からはかなりあきれられている。でも美味しそうなキスが釣れ大満足。あーもう我慢できない、リード作るのやめて「釣り」に行こっと。

<第10回> 私のビンボー楽器遍歴:パーカッション 三科清治さん

さーて何を書こうかな…と、過去のコラムを覗いてみると、自称B級グルメの私が食べ物について語るには、すでに何人かが書いてるのでパスして…一番の趣味であるJAZZについては、事務局の竹ちゃん(竹村氏)の方が数段詳しいしパスして…ここはひとつ、語るも涙「私のビンボー楽器遍歴」とでも銘打って書いてみましょう(笑)。


あれは小学校3年生のころでした。NHKのテレビの「フルート教室」に影響されてフルートの音色が大好きになり、すでに子供心ながら家がビンボーなことは薄々感じてましたが、勇気を振り絞り、「お父ちゃん、フルート始めるから買うてー。一番安いやつ36,000円で楽器屋さんに売ってたから」とお願いし、晴れて楽器屋に行くことになりました。ところがその楽器屋さんには「フォークフルート」という、キーがほとんどついていない楽器が置いてあったのです。父←楽器音痴(^_^;)「清治、こっちの方が安いでー6,800円やん。すんませんこれ下さいー」有無を言う暇もなく購入。それでも根性でNHKをみながら2ヶ月くらいは練習した記憶があるけど、結局挫折…。あの時せめて本物のフルートを買ってもらっていたら??


次は小学校5年生の時でした。鼓笛隊なるものが学校にあったので迷わす入部し、選んだ楽器はトランペット!ちなみにそのころ打楽器にはまったく興味がありませんでした(笑)。子供心ながら「フルート」の時の失敗を教訓に、こんどは母に「鼓笛隊に入部したからトランペット買うてー」、母「よっしゃよっしゃー、清治は音楽好きやからなー」で、母と一緒に楽器屋さんに行って開口一番、母「一番安いトランペット下さいー」というわけで当時18,000円←値段は忘れられない・・・の楽器を購入しました。それでも前の「フォークフルート」とは違い、最低限のトランペットの機能はあったので、その後当然買い換えることも無く(できず?)根性で高校1年生までトランペットを続けました(涙)。


そして、極めつけは中学1年の時です。小学校卒業のころ、音楽の先生に「この子は音楽の道を行くべきです!」ときっぱり母に助言して頂いた(感謝)ので、これはもしかして欲しかったピアノを買ってもらえるチャンスと思いました。用意周到に中古ピアノ棚卸大セールの広告を片手に「おかん~、ピアノ買いに行こー安そうやしー」、母「よっしゃよっしゃー、清治は音楽の先生に言われたもんなー音楽家になれって。で、なんぼするん?」、「ん~20万円くらいちゃう??」、母「それくらいやったら買えそうやなー、お父ちゃんには内緒やでー」、とうわけで天王寺(大阪)のピアノ卸売り大セール会場に母と行きましたが、そこにはいくら30年近く前といえど20万円以下のピアノなんぞありませんでした。ところがピアノと同時に、そういうところでは中古の電子オルガンが置いてあったのです。売価180,000円也。ハモンド社の電子オルガンの入門用のちゃっちい楽器でしたが、18,000円のトランペットが唯一の楽器の私にとっては夢のような楽器でした。母「清治、これにしとこか?」…30分ほど悩みました。「やっぱりこうなるか…」

そのころすでにそろばん検定2級の私にとって、家の財政状況も手にとるように理解していました。これを逃すと次は3年以上先であることを悟り、過去の2回の楽器購入の経験を生かし「分相応に!」と心に言い聞かせながら、「これにするわー」と返答しました(涙)。 それでも近所のちっちゃな子供に混じって「良い子のエレクトーン教室」に通い、高校1年の時には先生の勧めで「指導者養成コース」にまで行くことになったのです。ちなみに指導者養成コースは、音大卒のピアノ科のきれいなおねえさんばかりだったので、高1の私にとってそれはそれは楽しい夢のような半年間でした。←半年後月謝が11,000円に上がったので自主的に辞めました(涙)。

この他にも、ドラムセットがが無いのに「ドラム教室」やピアノが無いのに音大受験とか、マリンバが無いのにマリンバソロの仕事とか…。

後編はまた次の機会ということで…。

<第11回> 小学校5年生でボケ:チェロ 石井忠彦さん

季節はいつごろか、定かでない。その日は夕方から雨が降り出していた。いつものように夕飯をすませ、いつものようにお風呂に入って、いつものように布団に入った。(当たり前の事だが、)

僕は、夢は見るけれど、いや見たような気がするのだが、ほとんどは覚えていない。というか、思い出せない。今でもそうだ。でも、この夜(朝かもしれない)の夢だけは、鮮明に覚えていた。その夢は…

ふと気が付くと、僕は玄関の前に立っていた。何故か手には、愛用の枕を抱えていた。それから、玄関のカギを開け、(その頃のカギは真鍮でできた、棒状のものにネジが付いており、穴に押し込んで回してかけるものであった。)、玄関のガラス戸をガラガラと開けたのである。外は薄明るかった様な気がするが、ザアザアと雨が降っている。

玄関から門の所まで5mくらいはあったろうか、その門の手前に松の木らしきものがあったのです。その木めがけて、やおら持っていた枕を投げつけた。

…覚えているのは、ここまで

朝、目を覚ました僕は、枕が無いのに気付いた。母親に「枕、知らない?」と聞くと、「知らないわよ。どうしたの?よく探しなさい。」と言われたので、子供部屋をくまなく探してみたが、どこにも見当たらない。あっ、そういえば夢で…!僕は子供部屋を飛び出し、廊下を走り、玄関の前まで行った。玄関にはカギがかかっている。開けて外を見てみた。…が、どこにも枕は見つからない。しかたなく戻り、母親に夢の事を話し、「枕が消えてしまった。」と言うと、母親は「新聞取りに行ったら、枕がビショビショになって、ションボリしてたわよ。」と言って笑ったのです。

その後、これって夢遊病かなって心配したのですが、それから40年近く、その様な事は起こらないので、この出来事は、夢遊病ではなく、たんなる寝ボケ!!


<第12回> 「なつかしいもの」:ヴァイオリン 佐々木亜紀子さん

私の実家に8mmフィルムがあります。ビデオではありません。8mmカメラで撮影したものです。当然映写機もあります。もちろん家庭用のものですが、兄が生まれたころに購入したものなのでもう40数年前にもなり、当時としては結構珍しかったと思います。しかし今となってはカメラも映写機も壊れてしまっていて、直すための部品も売ってないし、修理店もないので(ちゃんと探せばあるのでしょうが)、使うことができない状態でした。

フィルムに映っているのは家族の日常で、旅行に行ったとき、運動会や入学式、海水浴や何気ない休日のひとコマなどで、子供のころは日曜の夜になるとよく、ふすまに白いボードを立てかけて映写して見たものです。無声だったので父親はいつもBGMにバッハの無伴奏ヴァイオリンのレコードを流していました。

昨年、実家に帰ったときにそのフィルムをビデオかDVD化できないかとふと思い、仙台に持ち帰ってきました。私の実家は東京なので現地で起こしてくれるところを探したほうが早かったかも。でもツテもない上、仙台のほうが何かと動きやすかったということもあり…。ダンナと電話帳を見ながらビデオ屋さんに問い合わせをしました。できるところが見つかったので、さっそく持ち込んでお願いしました。フィルムは20数巻あり、1巻ごとテープをつなぎ足してあったためかなり長くなっているものもあり、いざ起こしてみると、延べ7時間以上、DVDで4本分に及びました。料金もハンパではなかった…。でもさっそくみて見ると、ああ、やっぱり起こしてよかったなあ、なつかしいものでした。

古いフィルムは保存状態が悪くてピンボケしてる部分もありましたが、ビデオ屋さんは頑張って調整しつつ収めてくれたようです。最初のほうはもちろん白黒だし、昭和初期のニュース映画みたいなレトロな映像で、うちの家族が歴史上の人物のように見えて笑えました。兄が生まれたばかりの赤ちゃんの時からすくすく成長して、姉が生まれて、いろんなところに遊びに行ったり、もうずいぶん前に亡くなってしまいましたが、当時同居してた祖父母の元気な姿とか、久しく会ってない親戚とか、若かりし日の両親の姿とか(今の私より年下)…かつてはしょっちゅうみていた映像の筈なのに、かなり忘れてるもんだ。しかも当時は見たい巻を持ってきて、自分が映ってる部分ばかり見ていたし。そのうちやっと私自身も赤ん坊で登場してきますが、上の二人から年の離れた末っ子だったため、全体のうちのほとんど後半に入ってからでした。でもやはり自分が出てきてからのモノはじっくり見ちゃいますよね、どうしても。

私は埼玉県の毛呂山町というところで生まれました。埼玉県人が聞いても知らない人のほうが多いくらいマイナーな小さな町です。池袋から東上線に乗って一時間かかります。山に囲まれて(遠くに見えるのはは秩父の山並みでした)、田んぼがいっぱいあるところでした。のどかな田舎で特に何にも自慢できるようなこともないところでしたが、子供のころ暮らした場所と言うのは楽しい思い出がたくさんで、印象が強く残ってるもんですよね。そんな頃の映像が盛りだくさんなのですから、見ている間はタイムトリップ状態、なつかしい気持ちでいっぱいでした…。

つらつら見てると気づいたことがありました。兄姉の時から私の小学時代まで、我が一家の遊びに行くところは海か山か遊園地!あとプール。海水浴はさまざまなところへ行ってたようですが、遊園地は西武園ばっかり。山というのは登山するような高い山でなく、かならず山頂に神社か寺のあるところ、ちっちゃな峰といった感じでしょうか。うちの親はやたら神社やお寺が好きだったらしい…。たしかに近隣に古い神社、寺の多い地域でした。地味だけど歴史のある場所だったんですね。

8mmってテープを切り貼りして編集するものなので、凝り性の父親は、遊びに行った場所ごとにタイトルを挟み込んだり、時には旅行した道筋がわかるように路線図の上を電車がアニメーションで動いたりする見出しを入れたりでなかなかのもんでした。フィルムは一年ごとに一巻きにまとめられており、子供の成長がわかりやすくなっています。でも当の子供たちが大きくなるにつれ、遊びに行くこともカメラに収められることも当然減りますよね。最後のほうの巻は、庭の植栽や木の映像ばかりで、最後の最後の見出しは「19XX年、祖父母の永眠」(祖父母は続けて亡くなった)というタイトルから始まっていて、まるでひとつの映画が終わってしまうかのような幕開けでした。子供も大きくなってしまったし、おそらくそのころが父にとって8mmを撮ることをやめる転機だったのかな…。その数年後まではそれでも少しは撮っていたようですが、尻すぼみのようにふつっとフィルムは終わってました。別にカメラが壊れたわけでもないはずですが、撮る気がなくなったんでしょう、多分…。ちょっと寂しいですがしょうがないですね。ちなみにうちの父も母も健在です。

私のうちにも娘が生まれたときに買ったビデオカメラがあります。さまざまなシーンをたくさん撮影しています。おそらく娘が成長したときに、私がそうであったように、なつかしい思いで見てくれるのかもしれませんね。でもカメラはいまどきデジタルで、私たちが生きてる間は劣化しません。自分が生まれたときから鮮明な映像がずっと残り続けるのはうらやましいような気もしますが、古ぼけてすすけたアナログテープで見るのも歴史を感じさせて、味があって、かえって大切な思い出として家宝のように大事に思えてしまいます。でも、まあそれも私の世代だからということで、思い出は誰にとってもどんな形であれ、大事であることに変わりはないでしょうが…。


<第13回> 共同生活:ヴィオラ 梅田昌子さん

私は犬と暮らしはじめて12年が過ぎた。いつのまにか3匹にもなっていたが、たいへんというより1人暮らしという意識がなくなっている。
とりあえずユニークな3匹を簡単に紹介しておきます。

(1) シベリアンハスキーのメスで12歳。名前はマジェンカ、通称はマジェ。

もうすっかり中年太りで、のしのし歩くおばあちゃんである。若いころはなかなかの美人だったようで散歩ではオス犬にモテモテだった。家では私の次にえらいと思っているので、弟子や5歳以下の子供は相手にしない。

人間用の健康食品が大好きで、最近はカテキン入りのカスピ海ヨーグルトを毎朝食べている。笹ダンゴの笹をきれいにむいて食べていたのにはびっくり。あんこは大好き。


(2) シベリアンハスキーのオスで11歳。マジェンカの息子である。名前は師匠。通称はしーくん。

年令的にはもうおじいさんなのだが、スリムで若いころと体形は変わらず、老犬には見えない。のんびりしていて、おやつもゆっくり上品に食べるので、人間には好感度No.1である。科学調味料探知犬というべく、添加物の入った食品はほとんど食べない。彼が食べる食品は“師匠くんのおすみつき”といって安全食品である。けっこう器用でキャラメルやあめはちゃんと紙やビニールをむいてから食べている。


(3) ラブラドールレトリバーのオスで5歳。名前はダンボ。通称ダンちゃん。

ものすごく食欲旺盛でなんでも食べる。よだれの量ははんぱじゃない。おやつを前に“まて!”なんて言ったらよだれの水たまりができる。そのあと“お手!”したら、自分のよだれでつっぱてた片方の足がズルッとすべってこけてる。寝てる時も、食べてる夢をみているらしく口がムシャムシャと音をたてている。よだれで服をよはごすので来客にはきらわれる。頭を使って、師匠のおやつはおこられないタイミングで横取りしているのはなかなかすごい。3匹平等におやつをあげてるのに、実際は何人分食べてるのかわからないので、しっかりデブである。

幼いころからハスキーと暮らしているので、遠吠えもできるようになった。表情豊かでなかなかおもしろい犬である。本人は人間大好き。外出するときは必ずフリスビーをくわえて出かける。


犬たちに名前をつけた時点で彼らは個人(犬)になった。なぜか基本的犬権を尊重して、最小のしつけで、できるだけ好きにのびのび育ててみようと思った。

お留守番の時は、お皿にジャーキー、ビスケット、お魚、チーズといった具合に盛りつけ、マジェンカと師匠用に2つ用意しておいていく。食べたいものを選んで、全部食べてあることはめったにない。子犬のころは、お留守番中のいたずらはすごい。いろんなものをかまれたり、こわされたりしたけど、頭にきて、おこるというより、うっかり置いておいた自分を反省している。どうしたらいいか考えた結果、なぜかモーツァルトのピアノ・ソナタ全集をCDチェンジャーに入れて、一日中かけていった。アホな飼い主と思うでしょうけど、これがけっこう、いたずら減ったんです。(気持ちよくねてたんじゃないかと推測。)

散歩も、いつもは決まったコースを歩くことが多いが、お休みの日におまかせコースと称して、犬にまかせて歩く。犬は、人が新聞を毎日読むみたいに、散歩で近所の毎日の情報を得ているとなにかの本に書いてあったので、もっと行きたい所があるんじゃないかと思ったのだ。結果はあんまりあてにならず!行き止まりに入ったり、どこに出るかわからない道を行き、3時間ぐらい家に帰れないこともしばしばあった。

食事は基本的にドッグフードだが、たまに気が向くと犬用を作る。たとえばコロッケは人間用と、塩、こしょう、玉ネギ抜きの犬用と2種類つくる。ミネストローネも犬用は味なし野菜スープになる。手間はかかるが“きょうはごちそうだよ!おいしいよ!”って言ってあげると、特別なんだとわかっているように思える。なにしろ添加物探知犬の師匠くんのおかげで、私も食品の原材料には敏感になってしまった。一度スーパーで半斤の食パンを買ったらへんな(?)味付けがしてあってまずかった。バターをつければ犬が食べてくれるだろうとあげてみたけど、みごとにバターだけなめてパンを残してあった。ホームベーカリーで作ったパンは喜んで食べるのに!それ以来、犬が食べないもの、食べられないものは買わなくなり、私の食事は犬も食べられるもの中心になっている。

寝る時もいっしょである。ペットの飼い方としてはよくないらしいが、3匹もいると多数決で負ける。冬は寒いのでみんなでふとんの内やら上やらでくっついて寝るので窮屈である。こんな時は犬の群れのボスになった気分である。

いつのまにか私も「ちょっとゴミ出しに行ってくるね!」とか「お風呂に入ってくるね」なんていちいち犬に断っている。犬たちも「ごはん欲しいんだけど!」とか「庭に出たいからドアあけて!」とか個人交渉にやってくる。飲み水がなくなったのに気がつかない時は「ワン!」とするどく一言、まるで「お水ないんだけど!」っておこられたようだった。

こんな犬に育ててしまって、人様にはけっして自慢できないけど、お互いに幸せならいいかぁと思うことにした。

<第14回> 無題:ホルン 須田一之さん

四季のある暮らしはとてもすばらしいとは思うが、最近はその移り変わりをとても早く感じるようになっている。小春日和の今日この頃ではあるが、少しずつ寒くなり、子供達にはうれしいクリスマスの季節がやってきた。先日早くもクリスマス・ツリーの飾り付けを終えた。

この夏は長い間忘れていたことをたくさん思い出すくらいの貴重な体験をすることができた。中学時代から人様の前で演奏するという誇りある今の職業に就くまで、何と言ってもホルンという楽器が第一番であった。親になり、我が子とぶらりと外に出かける機会が増えた。昔はごく普通にしていた“生き物”を探しに、本当に良くあちこちに行きまくった。ある新緑の美しい時に仙台市北部の田んぼに行き、脇の用水路に網をいれてみた。びっくりした、というよりものすごく感動した。たくさんの水辺の生き物が次々と採れた。まず簡単に小さな海老がいた。“藻海老”という。これがまたいくらでも網に引っ掛かるのである。とても懐かしく思ったし、一緒にいた3つになる我が子は初めて見る生き物に大いに喜んでいた。網をさらに深く入れてみると今度は“ドジョウ”がいた。なかなか太く立派なものである。“タニシ”や“おたまじゃくし”もいた。このくらいの生き物がいるのはまあ田んぼであるから当たり前か、と思っていたら、“タモロコ”という小魚や“イモリ”まで採れた。二人で思わず吠えた。しまいには“タガメ”や“タイコウチ”、“ゲンゴロウ”など水中生物の人気者が次々と姿を現す。もうこうなったら我が子のことなどすっかり忘れてしまい、自分の世界である。

ごくごく普通のどこにでもある田んぼであるのに、生き物の宝庫であった。適当にきり上げ帰路に着く。家に戻り早速今日採集した生き物たちを飼育するための準備を始める。 その時のきらきら輝く我が子のまなざしがとても印象的であった。これらの生き物はほとんどが長生きできないので、機会あるごとに逃がしに出かけては再び新しい生き物を探していた。水槽の中はいつもにぎやかであった。いろいろな公園にも行き、“ザリガニ”もたくさん採った。最近はどこに行っても“アメリカザリガニ”がいると言われているが、いやいやいるところには“日本のザリガニ”もいた。この“ザリガニ”、やはり生命力が強いせいか非常に気性が荒い。すぐお互いにちょっかいを出す。直接手に取った我が子がハサミに見事に挟まれ大泣きしていた。

山の中にも入り、昆虫採集もした。最近はホームセンター等で買うということが普通になってきているが、団内で詳しい人に指導を受けながらまめに山に通った

さすがに水中生物のようにはいかない。範囲が広くなかなか”虫”にはお目にかかることができなかった。難しいとは思っていたがここまでとは…。「この次は絶対見つけような!」我が子とお互いを励まし合っては暇があれば山に向かった。自分も参加しているホルンアンサンブルのサマーキャンプの為四国の愛媛に行った時も、空き時間の時は林の中を歩いていた。

頑張った甲斐もあり、この夏は“カブトムシ”には会えなかったが、“クワガタ”には会えた。

“クワガタ”のメスは仙台で見つけることが出来た。東北とは違い、うだる様な愛媛の熱帯夜の山中で“クワガタ”のオスを捕まえたときは、とてもうれしかった。おもちゃ屋さんの売り場ではこの“ムシ”たちを題材にしたものが多数売られていて、また爆発的に大人気である。我が家もこれらのおもちゃがたくさんいる。オスとメスだと本物でもおもちゃでも圧倒的にオスが喜ばれる。来年はさらにたくさんの本物を見せてあげようと思った。もちろん自然の中で見つけたものを。

仙台というところは適度に都会で、適度に豊かな自然があることは以前から知っていたが、改めて再認識することができた。こんな素敵な街で居を構え、音楽と共に暮らせることをとてもありがたく思っている。ドイツに留学している時に、いろいろな演奏家達が話していたが、音楽と自然はとても深く結ばれていると。それを今は強く感じることができる。

間もなく本格的に冬になる。野山の生き物たちはなりを潜めている。新しい年が来てまた暖かくなったら、少し成長しているであろう息子とぶらり出かけてみよう。

今も家には“虫”や“水辺の生き物”がたくさん飼われている。いつも子供は大はしゃぎ。そしていつもその横で渋い顔をして生き物たちを見ている我が妻がいる。(笑)

<第15回> 猫のいる暮らし:ヴィオラ 御供和江さん

私は《猫》が大好き。どこが好きかと言うと…困る。全部好きだから。わがままな性格、しなやかな体…それに鳴き声。『にゃあ~(ママ~と聞こえる)』と呼ばれるとつい返事をしてしまうし、〈だっこ〉をおねだりされると時間がないときでさえ『ママは今忙しいんだからだっこはだめよ。』と、だっこ状態で言い聞かせてしまう。

わたしの猫歴はわりと長い方だと思う。わたしの実家には絶えず複数の猫がいたし、東京で1人暮らしをしていた時も、ベランダにご飯を食べにくる猫のためのねこ缶を常備していた。

わたしが今まで出会った猫の中で、一番忘れられないのは高校時代に飼っていた〈ホームズ〉という名前の雄猫だ。彼はとてもやきもち焼きで、男の友達(本当に友達!)がノートなどを写しにくると、まるで監視するかのようにわたしの膝の上から降りようとはしない。勉強をしているとノートの上で寝る。夜帰るときも当然のようにわたしの胸の上で寝る。〈ホームズ〉の顔はわたしのあごの下位になる。おかげで怖い夢をみたり、〈ホームズ〉のいびきで目が覚めたりすることは日常茶飯事であった。これだけだと〈ホームズ〉はただのわがまま猫であるが、実は、彼は実家のあたりではボスであった。(多分)彼の父親もボスであった。〈ホームズ〉は縄張りを継いだようだった。それに同じ家に住む腹違いの弟妹猫達のボディーガードもしていた。近所の猫が我が家の猫に喧嘩をふっかけるとすぐに飛んでいって、『~の喧嘩は俺がかうぜ!』ってな具合に間にはいる。

ボスになったのは彼の父〈タム〉が引退してからだが、もっと幼い頃から〈ホームズ〉は弟妹猫達の面倒をよくみるいいお兄ちゃんであった。〈ホームズ〉はもらわれてきた猫だったが、その当時うちには〈はな〉という雌猫がいた。〈ホームズ〉が我が家に来た時期と同じ頃、彼女は6匹の子猫を生んだ。〈はな〉が外出するときや子猫の傍を離れるとき、子守は〈ホームズ〉の仕事となる。〈はな〉の代わりに子猫の傍に横になり、自分のお腹のあたりに子猫を集める。子猫を保温しながら、きちんと下の世話もしていた。よく出来た男であった…のではないかと今更ながら思う。〈ホームズ〉は、私が上京して1年目?位に姿を消した。


今、南中山の自宅には2匹の雄猫がいる。名前は〈だいこん〉。〈だい〉君と〈こん〉君である。名付け親は娘とわたし。6月23日で1歳。まだまだ若い…。

〈だい〉は黒トラ、〈こん〉は茶トラで『兄弟を引き離すのはかわいそうだし、遊び相手がいたほうがいいであろう・・・』と2匹一緒にある獣医さんからいただいてきた。娘と母と、紹介してくださった近所の方と4人でもらいにいったのだが、全員が一目惚れした兄弟であり、獣医さんのお墨付き、一押し!の2匹だった。性格もおだやかでそそうもせず、手のかからないとてもいい子たちである。どっちが兄かわからないのだが、なんとなく〈こん〉が兄貴ではないか…といおうことになり今もその説のまま。

それぞれ個性があって、娘に言わせると〈こん〉はお兄ちゃんらしく(!?)いつも《ピシッ》としていて〈だい〉は《甘えったれ》だそうだ。なかなかあたっていると思う。〈だい〉は常に『ママだっこ~…』とか『おひじゃ~…(膝の上にのせろの意)』などと言っている。~今現在もわたしの膝には喉を鳴らし手がモミモミ状態の〈だい〉がいる。~膝の上で丸くなって喉を鳴らしているかと思うとわたしを見上げ(微妙に目が潤んでみえる)起き上がって鼻をわたしの唇に『チュッ』って感じに瞬間つけて、また寝る。飼い主冥利につきる。長風呂の友も〈だい〉。お風呂で本などを読んでいるとたいがいきて、蓋の上にいる。

〈だい〉は別名〈お迎え猫〉でもあり、外から帰ると必ず玄関まで来てくれる。家族でもお客様でも、玄関のドアが開くと『お帰り~~~』と急いで走ってくる。たまに寝ぼけた顔をしている時もある。

さて、〈こん〉はと言うと〈だい〉のように甘えることはめったにしない。人前ではほぼしない。ただ、〈だい〉がお昼寝ね中だったり、周りに誰もいなかったりすると『ママ…僕もだっこして…』って感じになる。娘に対しても同様であるらしい。毎朝のトイレについてくるのは〈こん〉。もちろん娘のトイレにもお付き合いしている。わたしや娘の正面に座り、何事かを話続ける。〈こん〉の口調は何かを話ししているかのようだ。夜遅くまで起きているわたしの足元にきて『ね~む~た~い~』と聞こえるような鳴き方をしたり、『こんっ』と呼んで『な~に~』と言われたようなこともある。娘にもそう聞こえるらしい。わたしたちは相当、世に言う《飼い主バカ》かもしれないが…可能性は有る。〈こん〉の別名は〈取って来い猫〉。猫用のおもちゃで遊んでいてそれを投げると取ってくるのは〈こん〉。くわえて持ってきて(あっ、当たり前か…)足元にポトッと落とし、『もっと遊ぼうよ…』と言わんばかりに大きな目で見上げ、自分が飽きるまでは何度でも持ってくる。寝る前に遊んでいて娘が先に眠くなり、寝たフリをすると、それまでベットの下までしか持ってこなかったのが狸寝入りをしている娘のお腹の上に持っていくようになる。〈こん〉は娘と遊ぶのが大好きなのだ。本当に娘が寝てしまうとあきらめて自分も寝るか、〈だい〉と違う遊びをしに行ってしまう。

〈だい〉は〈こん〉にも甘える。家具の下にねずみのおもちゃなどが入り込んでしまって取れないとき、始めは自分で努力しているのだが、ふと気が付くと〈こん〉が取ろうとしている。〈だい〉は後で見ている。『にいちゃ~ん…とれたあ?』『…もうちょっと…まってろ…』なんて会話が聞こえてきそうな感じである。

〈だいこん〉はよくくっついて寝ている。抱き合って寝ている・・という方が正しいかもしれない。お互いを毛づくろいしあう。〈こん〉のひげはとてもりっぱなのだが〈だい〉のは貧相。どうやら〈こん〉の《愛情いっぱいの毛づくろい》によって引っ張られて抜けたり枝毛になったりしているようだ。最初、それに気付かず獣医さんに〈だい〉のひげについて相談したりした。〈だいこん〉のおかげで我が家には笑いが増えた。癒されているとも思う。

これだから猫のいる暮らしはやめられない…。

<第16回> チコ:ヴァイオリン 熊谷洋子さん

犬やら猫やらペット自慢が続いていたようで…実は何を隠そう私も無類のねこ好きでして、猫ネコねこ寝子、…の話をさせたらきりがないのですが、御供さんに先を越されてしまったのでここでは別の話をひとつ。

私が生まれた頃父は貧乏教師で、私たち一家は二間続きの木造でお風呂とトイレは外という築…年の貸家に住んでいた。大家さんは町中にもかかわらず広大な敷地を所有していて、持ち家である4、5軒の貸家をのぞいてもさらにあまりある土地に広い庭と広い邸宅があったのを思い出す。貧富の差を身をもって感じていた幼い頃だったが、狭いながらも楽しい我が家、父が連れてくる大人たちがせま~い居間で繰り広げる酒宴の席に混じりながら遊ぶのが私の楽しみだった。

ある日、いつものように酒宴の席の無駄話で、母が「真夜中の泣き声」という怪談話を始めた。近所の奥様方の井戸端会議で「この頃夜になると縁の下から変な声が聞こえるのよ~~。」「私も聞いたわ!!それ赤ん坊の声じゃな~い?」「えっ!だって真夜中よ!!しかも縁の下!近所に子ども生まれたなんて話聞かないし~~。」「じゃあ何の声?」「わからな~~い。とにかく薄気味悪いわねええ。」と言う話題で盛り上がったらしい。(一部脚色あり)みんなしばらくフムフムと真剣に聞いていたが、その辺は合理的な考えの研究者揃いだったので、「とどのつまりはネコの盛りじゃあないか!」っということで話はあっさりと終わってしまった。

ところがそれから何日かした静かな晩、突然その声が家のまわりから聞こえはじめ、家族でびっくりするやらひやっとするやら。とにかく確かめてみようということで外に出てみた。部屋から出るとお風呂場、トイレと続く渡り廊下、その先は真っ暗闇だったが、目を凝らすとかすかに二つの小さな小さな光が見えた。一瞬身をひくとその光は瞬く間に闇に消えた。

大人たちのその後の会話によれば、それは都会では見るはずのない小動物で、イヌにでも追われてこの辺に迷い込んできたのだろうということだった。

父は農家育ちであることと生来の好奇心から、この動物を餌付けしてみようという気になってみたらしく、次の日の晩から廊下の端に晩のおかずの残りなどをおいてみることにした。するとその〈子〉はだいぶお腹がすいていたらしく、次の日の朝には食べ物はきれいになくなっていた。何日か続いたある晩、私はどうしても様子が見たくてドアの隙間からそっと見つめていると、闇の中から光る二つの輝きが現れ、まわりをしばらく警戒した後夢中で餌を食べ始める茶色い生き物を発見した。その目は私の姿を見つけるとあっという間にいなくなってしまった。

しかし何回か攻防戦を続けるうちに私とその〈子〉の距離は徐々に縮まり始めた。そのころになると大人たちはそれがはっきりと「タヌキ」であることを認識し、私とその〈子〉がその後いかなる関係になるかを興味を持って観察し始めた。

相変わらず続く酒宴の席で必ず一回はタヌキの話題がでて、すると私の出番がやってくる。〈チコ〉と名付けられたタヌキに私がどれだけ近づけるようになったか試されるのである。「チコ、チコ」と何回か呼ぶと闇の中からゆっくりと二つの輝きが現れやがてはっきりとその姿をみせる。〈チコ〉は自分が〈チコ〉と呼ばれているのをそのころにはすっかり理解していた。理解していたように思う。

徐々に縮まった距離は私の手から直接食べる、というところまでいきついた。そうなると私はもう彼(彼女?)がかわいくてたまらなくなり、毎晩〈チコ〉にあげるため晩のおかずを残して会える時をうきうきしながら待った。

しかしその逢瀬は長くは続かなかった。ある晩、いつものように晩のおかずを残して時間がくるといつものようにいそいそと廊下へ出かけ「チコ、チコ」と呼びかけた。ところが待てど暮らせど二つの光はやってこない。もう一度「チコ、チコ」と呼んだ。…来ない。次の日も、その次の日も、〈チコ〉はやってこなかった。

突然の出会い、そして突然の別れは幼心にしっかりと焼き付き、その後の大人たちの尾鰭がついた後日談を聞かされ続け、成長した私の心にはいつも毛並みの良い輝くようなブラウンの〈チコ〉の姿があった。

たぶんその記憶が短毛より長毛のネコを好む私の趣味につながっているのだろうか?

今も私の手の平には〈チコ〉のざらついた舌の感触が残っている。

<第17回> 私の生活:ヴァイオリン 村上達俊さん

月日が経つのは早いもので、仙台に来て16年になりました。現在泉区に住んでいます。環境がよく、夜も静かでよく眠れます。

さて、職場へ行く時ですが、不便な所を除いてバスと地下鉄を利用しています。午後からのリハーサルや本番が夜の時は平日に限り、必ず立ち寄る所があります。泉区役所の地下1階の食堂です。私がよく食べるメニューは日替定食で、御飯は白米か健康米を選択する事が出来ます。但し、13時を過ぎると定食類のみ、売り切れになる場合があるので、その時はラーメンやカレーライスを食べています。よく利用するので、従業員の方々には顔を知られています。美味しいので皆さんもぜひ利用してください。

休日は練習以外、テレビを見て寛ぎますが、特に大相撲はよく見ます。小学生の頃から見ているのでもう30年になりますね。2005年は朝青龍や琴欧州など外国人力士の活躍が目立ちました。私の実家のある茨城県牛久市出身の稀勢の里は九州場所で初の上位挑戦でしたが、残念ながら負け越しました。まだ19歳なので今後に期待したいと思います。時間があれば、生を見たいですね。

仙台フィルの演奏会に御来場くださるお客様や会員の方々にはいつも感謝しております。本当にありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
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